島に立つ。

先日、私は願ってもない幸運に恵まれました。


白洲灯台への上陸を果たしたのです。


雲のうえ4号島特集の冒頭に、岩松助左衛門と白洲灯台の伝承が紹介されています。
年に1度の清掃活動以外に、白洲へ上陸することはできません。
その清掃活動に参加してきました。







6月2日、曇り。以前朝市で訪れた小倉の長浜漁港に集合。
「岩松助左衛門顕彰会」のロゴが輝くジャンパーを着こなして、委員の方々が受付してくださいました。


渡された名簿を見ると、「○○丸」と4隻の漁船の名前が。
え!てっきり市営渡船で行くものだと思ってた。
漁船に乗るのも初めての体験。これはますます楽しみになってきました。


先生に引率された小学校のこども達もやってきて、参加者は50名ほど。
開会挨拶が終わり、それぞれ割り振られた船に乗り込んで出発進行!






漁船の地べたに座ると視線が低く、白波が目の前に迫り、しぶきが顔を濡らします。
子ども達が思わず身を乗り出すたび、「そんなんしよったら落っこちるど!」と、笑いながらおいちゃんの声が飛びます。


海に出ると、小倉の工場と若松の発電風車が案外近いところにあったり、下関彦島が思いのほか大きかったりと、陸での感覚が覆されてしまいます。








30分ほど波に揺られた頃、「見えてきたど!」の声に舳先の方を見ると


見えた!あの白黒の縞模様。
どんどん近づき、船が着岸。



桟橋に踏み込み、白洲上陸!


「洲」といわれるだけあって、砂の堆積が丘を作り、丈の低い浜草が一面を覆っている状態です。そこにすっくとそびえる灯台






灯台見物は後のお楽しみとして、ビニル片手に清掃に入ります。
海藻や竹の小柴にまぎれて、プラスチックの破片。
砂浜から顔をのぞかせていたタイヤは、数人でエンヤコラと引っ張ってもびくともせず、テコを使って、やっとの思いで回収成功。



集めたゴミを前に、海上保安部の方々が解説。
大人もこどもも真剣なまなざし。





そこへやってきた保安庁のヘリコプター。おーい!
島の上を飛んで颯爽と去っていきました。






そのあと、丘の上にある小さな慰霊碑を前に、黙とうを捧げました。



右の碑には「岩松助左衛門翁」の文字。左の碑はちょうど眉毛の位置に毛虫が。



それからコピーが配られて、みんなで白洲灯台の歌を斉唱。歌声は響灘に吸い込まれていきます。



昭和歌謡のような曲調だったので、歌うのがちょっぴり大変でした。






一段落して、灯台見物。


高さは10mを超えるくらいでしょうか。
下から石積み、鉄板、明かりを灯す部分の3段構え。
入口上部には130周年記念平成15年のプレート。





何の跡か、レンガ積み跡。




帰って調べたところによると、竣工は1873年、明治6年。
設計はR.H.ブラントンというイギリス人技師で、日本灯台の父と称される人物だそうです。
ちなみに門司の部崎灯台も明治5年竣工で、設計者は同じくブラントン。


海の難所を改善して人命を守ろうとする助左衛門の働き掛けや、開国にあたり早急な航路の確保が求められたことにより、明治の早い段階で関門海峡灯台が建設されたのです。
海上交通の難所であり要所として、外すことのできない場所であったことがわかります。




足元に目を移すと、海辺独特の植物。




ハマダイコンはわかるけれど、他はどんな植物なんだろう。



小さな花は孤島に咲いて。


近くにいた男の子は何か虫を見つけたのか、「島にもいろんな生物がいるんだなぁ」と素朴な発見。







流れ、埋もれる。




そろそろ帰る時間。
なごり惜しくてもう一度白洲を見ておこうと振り返ったとき、4号の表紙と同じアングルになっていました。
表紙に慰霊碑が写っているの、みなさんは見つけられましたか?




再び船に乗り、自分たちの街へ帰ります。
島よ、さらば。また来年もここへ来られますように。


小さな島には沢山の発見が秘められていました。(女将)






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