湯気のうえ(替玉したいラーメン号)


はー。
ため息ばかりが出る。
圧倒的なものを見せつけられて、言葉が出ないという感じだ。
おなかいっぱい、ごちそうさん
この満腹感の前では、なにも言葉にしたくないともいえる。
パッと表紙を見たときから、やられたーと思ったが、
表紙を開いて、あー、この色、この文字たまらんとなって、ぱらりぱらり。
あー、このカット、このシチュエーション
はー、すごいわー。


「いいね!」なんかじゃないのである。
そんなフェイスブックみたいなやわな言葉では語れない、
語りたくないとも思いつつ、
今度、じっくりうちに帰って読もうと思って、数日後、読了。
そして、ため息ばかりが出るのである。


はー。
この息がラーメンの熱さを冷ます、「ふー」だったらいいのに。
しかしいま『雲のうえ』最新号を読み終えたばかりの私の目の前には、
ラーメンの姿などなく、熱い湯気なども見えず、
ただ、白い自分のため息だけが見えるのである。


今回発行された『雲のうえ』16号の特集は、「北九州ラーメン」。
私は小学校に上がる前に大阪から北九州市の小倉へ引っ越してきて、
小・中・高と小倉で、北九州文化圏で過ごしてきたが、
北九州ラーメンといわれても、あまりピンと来ない。
文中、M氏の言葉にあるように、豚骨もあれば醤油も味噌も
その多様性こそが、いうなれば、北九州ラーメンといえるのだろう。
ともあれ、今回特集を北九州ラーメンとしたことで、
福岡のラーメンは博多や久留米だけじゃないんだ、
北九州のラーメンもあるんや、ということになってしまったと思う。


そこなんだと思う。
自分の部屋の家具や本棚の本を、
自分のお気に入りのものでいっぱいにしていくと、
うれしくなったり、満たされた気持ちになったりするように、
これを「北九州ラーメン」とカテゴライズしようと、自分であれこれ食べ歩きに行って、
お気に入りの一冊を作る。
すると世間でその世界が認知されて、その世界が真実味というか、
リアリティーを持って、この世界へと飛び出してくる。
いや、もうこの世の中にあったかもしれないけど、
というかあったんだけど、
それを言葉で、写真で、絵で、デザインで形作ることによって、
「なんとなくあったもの」が、「ちゃんとあるもの」として立ち上がってくるのだ。
固有名詞を持って言葉となり、やがてそれが根付いて文化となり。
そしてその文化のなかに、私たちはいま存在している。
だから文化は自分たちの手で作れるということだ。
作ってもいいということだ。


で、その作られたものを見終わって、
私はいまグウの音もでないで、
はー、はー、とため息ばかりついている。
いや、精神的にはそういう状態なのだが、でもおなかはグウと鳴っているのだった(笑)
やはり身体は正直だな。
なんでも知っている。
知らなかったのは、夜クルマで「チャラリ〜ララ♪」と鳴らして
ラーメンを売りに来るラーメン屋さんを、通称「夜鳴き」と表現することだった。
なんとかっこいいではないか。
いま、この文章を書いている深夜、この辺に夜鳴きが来ないだろうか。
想いをはせる。
その音に、ラーメンの味に、汁の熱さに、
共鳴したいと、私の腹は鳴っている。


でも夜中に食って寝ると太るので、もう寝るか。
グウと鳴っていても。
『グウネル』なんちゃって(笑)
そう、雑誌『クウネル』の鈴木るみこさんの文章が、
私にはドンピシャだったのである。
自分の側にひきつけて、自分事として描かれていて、
ラーメンに興味のない女の子でも、
ちゃんと読める文章になっていたのだった。


すごいなーと思った。
すごいなー、すごいなーと思いながら、
最後の一滴を飲み干したくない、この至福が終わりたくないと思いながら、
なんども、なんども、味わうように最後の一文まで飲み干した。
人は食って寝るのみにあらず!
なんてよくわからんことをいいながら、
はー、ごちそうさん
あ、でもやっぱ替玉もらおうかな。
いや、汁飲み干したし、また一杯食べに来るよ。
そのときまで、やめんと続けといてね。


というわけで、次号『雲のうえ』17号がどんな味になるのか、
どんな特集号になるのか、楽しみにしつつ、
もう一度、「北九州ラーメン」号を読み返すのだった。
はー、もう一杯!




(古書コショコショ うめの)